1996年11月23日の夜、ビル・クリントン大統領夫妻を乗せたエアフォースワンがマニラに着陸しようとしていたとき、米国シークレットサービスは大統領暗殺計画に関する情報を受け取った。
ビル・クリントン氏と妻のヒラリー・クリントン氏は、毎年恒例のアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議に出席するため、フィリピンのマニラへ飛んだ。飛行機が着陸すると、シークレットサービスのダニエル・ルイス捜査官は空港チームに対し、代表団がマニラのホテルに向かう予定の経路上に爆発物が仕掛けられているとの諜報情報を知らせた。
この旅行で大統領警護チームを率い、後にシークレットサービスの長官となったルイス・メルレッティ氏も、米国の諜報員から「橋を越えた結婚式」について警告する電話を受けたと述べた。 「結婚式」は暗殺を意味する暗号だ。
クリントン氏の車列がマニラのホテルまで通ると予想されるルートには、3つの橋が渡される。 「我々はルートを変更している」とメルレッティ氏はマニラ駐在の米シークレットサービスの最高情報責任者、グレゴリー・グロッド氏に安全な回線で連絡した。
米大統領の車列が別のルートを通った際、フィリピンの治安部隊は、車列が本来通るはずだった橋に仕掛けられた爆弾を解除した。また、近くで放置された三菱パジェロ車とAK-47ライフルも発見された。
ビル・クリントン大統領、1996年11月、フィリピンのマニラにて。写真:ロイター
翌朝、グロッド氏とメルレッティ氏はマニラの米国大使館の米国情報当局者から暗殺計画について知らされ、爆発装置の写真を見せられた。それは、TNT爆薬の入った箱の上に手榴弾を置き、起爆装置として機能するノキアの携帯電話にワイヤーを接続したものだった。
グロッド氏は、米情報機関は、この計画はオサマ・ビンラディンの命令で、アルカイダと、アルカイダ関連組織とみられるフィリピンのイスラム主義組織アブ・サヤフのメンバーによって実行されたと評価していると述べた。
ユセフ氏は米国コロラド州の厳重警備刑務所で終身刑に服している。ユセフ氏は1995年に逮捕された後、メディアがクリントン氏が訪問すると報じたマニラの場所を調査したと述べた。ユセフ氏は「車列のルート上の場所に爆発装置を設置することを検討した」と付け加えた。
FBIの証言メモによると、ユセフ容疑者は、厳重な警備と攻撃準備の時間がなかったため、計画は最終的に失敗したと述べた。
しかし、米国の捜査官3人は、フィリピンでのAPEC会議の日程が1994年後半から決まっていたことを指摘し、ユセフの1994年の渡航は実際には1996年の攻撃の準備だったと信じていた。「彼が先駆者として行動していたことは分かっていた」とグロッド氏は語った。
アルカイダとユセフからの脅威は、シークレットサービスの先遣警備チームが直面している数多くの脅威のうちの1つに過ぎない。
当時、フィリピンは国内の暴動に対処していた。地元警察はクリントン氏が到着する数日前にマニラ空港とスービック湾のコンベンションセンターで爆弾を発見した。米国務省は最初のカップルが到着する前日に、米国外交官に対する脅迫について警告を発していた。
グロッド氏は、マニラでの任務は「これまでで最悪の偵察」だったと語った。大統領の訪問に同行した米空軍のロバート・「バズ」・パターソン中佐によれば、訪問前にクリントン氏にも脅迫が報告されていたという。
1996年のクリントン大統領暗殺事件に関与した容疑者ラムジ・ユセフ。写真:ロイター
シークレットサービスの一部のエージェントにとって、マニラ事件は未解決の疑問を残した。その後、米国がこの暗殺計画をさらに調査したかどうかについては情報がない。
「私はいつも、なぜマニラに残って捜査を続けなかったのかと不思議に思っていた。ところが、クリントン大統領が去った翌日に私はマニラから連れ出されたのだ」とグロッド氏は語った。
米国務省の元テロ分析官デニス・プルチンスキー氏は、1995年にクリントン氏が指令39を発令し、国内外で米国人に対する「あらゆるテロ行為を抑止し、打ち負かし、強力に対応する」こと、そして「責任者を逮捕し、訴追する」ことを誓約したと指摘した。
タン・タム(ロイター通信による)
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